良い歌詞とは

音楽を批評するとき、あるいは誰かにおススメするとき、歌詞に焦点を当て力説することは多々ある。本来の「音楽」というもの字体を捉えれば付属的な意味合いが強い歌詞だが、今日のポップミュージックとしての「音楽」の機能は音だけでなくその言葉自体も非常に重要なテーマになってくる。

我々はなにかあるとすぐに「歌詞がいい」とのたまう。何が素晴らしいのか、どう素晴らしいのか、どこが心に響くのか、それらは全て聴き手の人生観や価値観、経験に委ねられるので、一概に正解はない。結論、アンパンのテーマに人生を救われても良いし、中島みゆきの「糸」で感涙しても構わない。なんだったらMETALLICAで価値観が形成されていても構わない。そこにやっかみを入れる必要はない。
ただ、あるていど客観的なものさしでその出来不出来を図ることができる。詩の世界でも名作とそうでない駄作も存在するように、当然音楽の世界にも素晴らしい歌詞とつたない歌詞がある(それにどう感動するかは自由なのだ)。

こと日本においては、歌詞がやり玉に挙げられることもしばしばだ。

翼広げすぎ

瞳閉じすぎ

桜舞い散りすぎ

など”あるある”な歌詞が批判の的になる。それはいわゆる、本当に意味を分かって使っているのか、それが必然的な使い方をしているのか、という疑問から生じる嘲笑なのだろう。

詩っぽいことを言えばいいってもんじゃない

何が素晴らしい歌詞かは難しいが、たしかに、それっぽい言葉を並べているだけで、必然性を感じない”文学っぽい”歌詞は陳腐に見える。それこそ「翼広げて」は比喩であり、自由とか解放とか、あるいは大切な人の元へ急ぐことへの暗喩になっている。それを必要としない場面で「なんとなくいいから」という理由で使ってしまうのはやはり駄作への入り口だろう。

他にも、すぐに街並みを出してきたり、安直な季節を表す動植物の使用はやはり気を付けるべきかもしれない。

歌詞自体をみて、単純に良い歌詞か悪い歌詞かを決めつけることはできない。あくまでその歌詞に必然性があるか、というのが重要だと私は思っている。先ほども言ったが、なんとなく耳触りが良く詩的な感じがするから、という理由でそれっぽい歌詞を切り貼りして並べただけの歌詞はどうしようもなく駄作である。

まあ私は作詞の講師でもなんでもないし、特に偉そうに指導するなんてことはしないが、気になる点ではある。

良い歌詞を書く人といってもその切り口は様々だ。いくつかカテゴライズしてみる。

①文学的な表現

比喩を多く用い、ときには造語まで使用し、さながら純文学のような世界観を構築する作詞家がいる。多少理解が難しく、とっかかりにくくなんだか難しい印象を持たれるのだが、誰かの解説を聞きながらすこしずつ読み解くという作業も時間はかかってもおもしろい。

②攻撃的(過激)な表現を用いる。

ストレートで過激だが、それだけ誰も怖気づいて言えないようなことや、誰もが気付かず通り過ぎていたことに鋭く指摘し、我々を鼓舞するのが目的である。
古くは忌野清志郎がその政治的なスタンスで今でも語り草になっている伝説はあきらかだし、政治的でなくてもTHE BLUE HEARTSのようなときにぎょっとするような歌詞もさりげなく放り込み、純愛や世界平和を歌うバンドもいる。

③難解な言葉は多用せずポップスとして成立させる

松本隆のような、非常に文学的ではあるが、理解に苦しむような言葉ではなく、深く考えなくてもちゃんと成立していて芯を食っている。これは非常に高度な技で、誰それ構わずできるわけではない。ごくごく限られた人のみができる芸当である。

④日常的、内省的で新しい切り口を与える

桜井和寿がその代表格ともいえるだろう。あとは藤原基央といった、90年代から00年代にかけて多く輩出したパターン。古くはフォークミュージックから存在している。反抗的な姿勢ではなく、日々使う、身についた言葉で紡ぎだす日常の真理は私たちに新しい価値観や発見を提示してくれる。

必然性と共に

こういったようなものがるが、これらは必ずどこかに所属するものではなく、素晴らしい歌詞の分類であり、このどれにも当てはまらないものはごまんとある。「歌詞ではなくメロディで勝負する」ミュージシャンも存在するので、属さないことが悪ではない。ただ、良い歌詞を書いてるつもりでもこのどこにも当てはまらない、誰かの受け売りの言葉ばかりを必然性なくつなぎ合わせているミュージシャンは多い。「晴れ渡る空」「桜舞う」「真っ白なキャンパス」も、その描写になんの整合性があるのか、今一度考えて歌詞を書いてほしいなあなんておもうのだ。別に誰ってわけじゃないけど…。