10年代の豊作

2010年代は非常に豊かな音楽であふれかえったディケードだったように思う。00年代を10代として過ごした身とすれば、10年代を10代として過ごした彼らを羨ましく思うし、嫉妬する。

基本的に文化は不可逆的、というか、進化あるのみだと思っている。もちろんミクロに見ると小さな後退もあるだろうが、それでも右肩上がりになっているはずだ。だって過去を参照し続ける限り、どんどん新しく豊かに改善されていくのが普通だからだ(それが大変だという事実もふまえておく)。

ヒップホップと言えばファンキーモンキーベイビーズが限界で(まあ本当はKREVAもRIP SLYMEもいたので切り取りではあるが)、それはいまだにヒップホップを模倣するとき「yo!yo!チェケラッチョ」というくらいに浸透していないのだが、それでもヒプノシスマイクやフリースタイルダンジョンからのR-指定、般若、DOTAMAとカラフルなラッパーが若者に認知されることになった。

ボカロ世代の台頭

ネオデジタルネイティブとも呼ばれるZ世代は、10代前半からyoutubeやニコニコ動画を使いこなし、早い段階から作曲へのフェーズへと移行し、オーディションを受けるでもなく”歌い手”としてデビューする。そこで火が付いた歌い手が事務所からデビューを持ちかけられる逆転現象はもはや珍しくなくなった。2020年はその集大成とも言うべきか、yamaやYOASOBI、ずっと真夜中でいいのに。、そしてadoなど次々と若手が台頭。なにかにルーツを置くことなく、あえていうならボカロ文化をルーツとする、クレイジーなほどにキャッチーで暴力的な音圧とメロディと抽象的な歌詞の数々は、米津玄師(当時ハチ)などといった10年代初期のボカロ独特のの文脈を受け継いでいる。そのため、異質さがあるので、ムーブメントの事後にボカロを知った私のような人間には馴染めない、ということもあり、若い世代のスタンダードではあるが、20代30代のスタンダードとなるかはもう1~2年要する気もする。

ところで10年代の音楽を振り返ると、四つ打ち文化の終焉と共に、”音楽好きが作る音楽”が日の目を見る時代が到来する。音楽マニアとしてはニヤリとしてしまうのだが、やはりオーバーグラウンドで戦えるインディーミュージシャンは応援したくなる。水曜日のカンパネラ、Suchmos、Nulbarich、極めつけはKing Gnu。まさかお茶の間にこんな音楽が流れるなんて想像もしていなかった。星野源も高い音楽性で広く音楽のすばらしさを広めているし、あてふりといった従来的なテレビパフォーマンスだけでなく、しっかりと演奏陣にもフォーカスできるような場を作り、ジェンダーバランスやLGBTQにも意識の届いた作品を届けるなど、社会的な貢献度も高い。

思えば2000年代はおかまで爆笑し、ダウンタウンのアカン警察(2011~13)にもあったような、ゲイに追いかけられて必死に逃げるシスジェンダーの芸人、みたいなグロテスクな構図は何のおとがめもなく放送されていた。決してキャンセルするつもりはないが、もう二度とあのような番組が作られないことを心から願っている。

雑多な音楽性で、ただただ従来的なJPOPを量産するだけの00年代は、音楽好きが好きな音楽を作れる時代ではなかった。それはセールする方法論が大手メディアを頼るほかなかったからだ。SNSを駆使して、メディアを頼らずともファンダムを形成できる時代なら、その心配はいらない。好きな音楽でじゅうぶん飯を食うこともできる。結果、その影響力になびいて頭を下げてくるのはレーベルの方だからだ。

説明が難しいのは大変

本題に入る。それだけ10年代はマニアックな音楽が享受され、「こんな音楽テレビで流れるのか」と過去のJPOPカルチャーを知る人にとっては驚きだったはず。Suchmosなんて売れるはずがない。彼らが紅白にまで出場できたこと、それは当時KICK THE CAN CREWが紅白に出場した時を思い出すが、そのレベルの快挙が毎年のように起きる。星野源、米津玄師、RADWIMPS、BUMP PF CHICKEN、YOASOBI…。シーンを開拓してきたミュージシャンがテレビの前に立ち、老若男女を湧かせる姿は、個人の好みを超越した感動がある。ただ、テレビにとってはそれは大歓迎だったのだろうか、なんてことをふと思う。

たとえばSuchmosがテレビに出たとき、彼らをなんて紹介すればよいのか。アシッドジャズをベースにした~という音楽ジャンルで語っても多くの人にはさっぱり伝わらないだろう。ルーツの一つであるJamiroquaiを挙げても効果はいま一つかもしれない。テレビにとって必要なのは、一言で表すことができ、かつそれがキャッチーで「お、どんなのだろ。聴いてみよう」と思わせることだ。Suchmosの魅力を表現するのは、あまりに難しすぎる。それはKing Gnuもそうだろう。結局、「三文小説」では「King Gnu史上最も高音の新曲!」といったクソつまらない謳い文句が堂々とテロップで紹介されることになる。

テレビが決して悪いとは一概に言えないのは、テレビ側としてもそうせざるを得ない実情があるからだ。まあ個人的にはテレビ側も相当無知だし無関心だしエンタメを軽んじてるなとおもうのだが、同情の余地はある。

TikTok影響下のシンプルさ

2020年、TikTokやyoutubeの影響で、多くのミュージシャンが日の目を浴びることとなった。もう何度も挙げているYOASOBI、yama、adoに加え、瑛人、優里、川崎鷹也といった面々がヒットした。

そのヒットはとうぜんバイラル的な要素が強いので偽らざる結果だとは思うが、それを加速させたのはテレビだ。TikTokをやらない大人世代にも彼らの音楽を届けた役割を果たしのは言うまでもないだろう。

ここからは私の予想と個人的感情だが、おそらくテレビも瑛人や優里や川崎鷹也の台頭は好都合だったはずだ。なぜなら最も簡単に紹介できるから。そして彼らもその安易な紹介を受け入れてくれる。「歌詞がいい」とか「歌が上手い」とかそういう表層的な所だけなぞっても問題ないし、事実それくらいが魅力なので、十分伝わるのだ。テレビとしてもっとも扱いやすい存在だ。かつてのGreeeenやファンキーモンキーベイビーズ、ゆず、コブクロ、なんでもいいが、ポップカルチャーにずぼずぼ入っていくことになんの抵抗感もない彼らはテレビにとってありがたい。一言で紹介でき、そして食いついてくれる。そしてわかりやすい歌詞に普遍性のあるストーリー。含みもなく限定的でいつまでもラブロマンスばかりに興じている頭すっからかんの社会人にはぴったりだ。自分の人生を振り返ることもなく身の丈に合わない恋愛をドラマで妄想膨らませ、現実でできることはそこで培ったノウハウを目の前にいる男女に当てはめ「お前はここがダメだ」とあざ笑う程度だ。そういう人たちに向けての一言が非常に思いつく。素晴らしい。

本当はSuchmosなんてうっとおしかった。プライドも高いし、セッティングもギャラもかかる。King Gnuなんてどう伝えればいいのかわからない。知らないし興味もないし試行錯誤もしない。Official髭男dismも”ブラック”ミュージックへの言及もせず、「pretender」を不倫の歌と限定的にし禁断の恋へと変換させて消費したがる。だから川崎鷹也なんて楽で仕方がない。「今の奥さんが当時彼女だった時にディズニー行った時に思った曲!」なんて共感しないカップルはいない。それっぽいけどなんの意味もない雰囲気オシャレのフィルム加工したMVはまるで本家が率先してTikTokをやっているかのようなチープさをまとい、消費されたがっている。相性抜群じゃないか。

2020年冒頭からいきなり00年代に回帰したかのような音楽性のシンプルさに個人的にはモヤモヤする部分もあるのだが、それは好き好きだ。ちなみに言っておくが、こうやって自分のプラットフォームで好きに書くのは各人の自己責任で自由だが、だからと言って他人のテリトリーにズカズカと入って自分の意見を喚き散らし煽り散らすことはよくないですよ。それと一緒にされるのは困る。私は「好きだ」という人たちの元へわざわざ近づいてコメントしたりしません。基本的にそういう人はどうかと思います。自由ですから止めないですけど。