テレビは規制が多すぎる?
ビートたけしが、「SAPIO」5月号の「誰がテレビを殺したのか」という企画内で、こんなことを言った。
たけしにとって、現在のテレビ局の抱える一番の問題は”自主規制”だという。
「オイラも昔のように言いたい放題できなくなっているね。政治的な内容どころか、下ネタやカツラまで、ありとあらゆる分野で『アレは言っちゃダメ』『これもダメ』って先回りして注意されちゃう」
「実はガンガン喋ってたって、放送ではカットされちまうんだよな」
たけしは生放送の情報番組『情報7days ニュースキャスター』(TBS系)に出演しているが、ここでもヤバい話をしようとすると、司会の安住紳一郎にすかさず話題を変えられてしまう、と暴露している。
ビートたけしは、今のテレビの状況を憂いている。彼の発言に共感する人は多いと思う。
たしかに、私みたいなテレビの規制が厳しくなり始めた90年代後半からバラエティを見だした人間が言えることではないかもしれないが、なんでもかんでも規制やらコンプライアンスやらでつまらなくなったのはたしかだ。ちょっと食べ物を床に落としただけで粗末にするなとか、女性をいじっただけで社会問題に結びつけたりとか。もちろんその意見が間違っているだなんて思っていないし、それで傷つく人がいたとするなら是非とも改善すべきことなのかもしれない。しかし、あのテレビの場というものが、全員許諾済みで、わかってやり取りをしている、という信頼関係の元で行われている事を忘れている人が時々いる。そして、自分が不愉快だから見ない、ではなく自分が不愉快だから徹底的に叩いて二度とやらせないようにする、という人が増えた、気がする。個人の問題を簡単に社会問題にすり替えて誰かの代弁者となって糾弾するスタイルはもはや日本人の十八番になりつつある。
やっぱり私はあまりそんな風にはしたくない。誰かを傷つけて泣かせていじめて嫌がる姿を無理やり世間に晒しているのは良くないが、彼らが了承済みでやっている限りはなんでもさせてあげたい。そして私たちは普段の生活ではできないような事を見たい。テレビだからこそできるものを見たい。生活の延長線上のテレビならいらない、と思う。
子供の教育に悪い、と言う人もいるが、それは親の責任だろう、何を転嫁してるんだ、と思う。
例えば過剰ないじりがあったとして、オケツ丸出しのクレヨンしんちゃんがいたとして、それをどう捉えさせてどう見させるのかは親の問題じゃないのか。そこを放置してそもそも映すなと社会のせいにするのは怠慢他ならない。そういう人はイジメも自分たちでまず解決しようと試みず全て学校に押し付ける。自分の子供を自分で守らない人間に偉そうに言われる筋合いなんてない。
ルールがあるから面白いという21世紀の発想
と、散々ビートたけしを擁護するように語ってきたが、実は私はある程度では今の風潮に賛成している。去年、とんねるずの石橋貴明が「保毛尾田保毛男」というホモのキャラを演じた時に叩かれたように、人種差別や性的嗜好をバカにすることは許されなくなった。違いをデフォルメするのは構わないと思うが、それを差別的な意識の元でバカにするために使うのは断じて違う。(したがって去年末のガキの使いやあらへんでの年末特番においてのエディマーフィー扮する浜田のバッシングは全く問題ないと思っている。むしろあれがダメならコロッケは今すぐ廃業して生放送で丸刈りで土下座すべきはずと個人的に感じている。)
テレビが自由な時代は何をしても許されたが、逆に言えば何をされても(言われても)文句を言えない時代だった。面白ければ許される時代だった。そんな自由とは果たして本当に面白いのだろうか。誰かを虐げて搾取して勝者だけが笑える古代ローマのようなやり方はやっぱり今の時代には合わない。
いつだったか、数年前のフジテレビ「バイキング」内で、フットボールアワーの岩尾が確かこんな趣旨の発言をした。
「今のテレビは規制が多いけれど、その制限の中でいかに面白い事をするか、というのが今の人たちの楽しみ方」
私はその発言が岩尾から出たのがすごく意外だった。そして共感した。今の人たちの考え方ってこうだよなって。規制の中で育ってきた私たちはそのルールの中で面白い事を考えてきた。老人たちからすれば、それはとても窮屈でつまらないことに見えるかもしれないが、そんな事ない。むしろルールがあるからこそ面白い。それが21世紀の人間の楽しみ方なんだ。
ルールがあるからクリエイティブになれる
なんとなく音楽でも同じことが言える。90年代末期に、Hi-Standardという伝説のバンドが現れ「テレビなどのメディアには出ない」という姿勢を貫いた。それは後進のバンドたちに大きな影響を与え、いつしか「本物のロックはテレビに媚びない」というのが我々聴く側の通例となった。BUMP OF CHICKENもASIAN KUNG-FU GENERATIONもBRAHMANもASIDMANもMONGOL800もくるりもナンバガも10-FEETもELLEGRADENもBEAT CRUSADERSも。
あれだけ売れっ子バンドがテレビに出ていた90年代に対し、00年代のテレビからはバンドが姿を消した。出てくるのはほんのわずかなバンドだけだった。いつもゆずとコブクロとORANGE RANGEだった。うん。それは言い過ぎた。
しかしその流れは再び変わる。2010年代に入ると、いつものようにアングラで人気を博したバンドが次々にテレビに出だした。そしてタイアップを平然とこなす。KANA-BOONやキュウソネコカミというポップなバンドからWANIMAやMAN WITH AMISSION、[Alexandros]といった硬派なバンドまで。きちんとテレビに出てちゃんと仕事をこなす。
それはバンドに限った話ではない。SAKEROCKから出てきた星野源などもそうだ。そして今まで出ていなかったバンドも次々と出始める。BUMP OF CHICKENは顕著な例だしRADWIMPSもそう。なにより先月ついにハイスタの二人(難波と横山健)がテレビで対談をした。若手バンドはむしろここにきてテレビを足がかりにしようとしている。テレビ側も「バズリズム」や「LOVE MUSIC」といった番組が自ら音楽イベントを持ち、若手発掘に余念がない。
少し詳しく話すと、バズリズムはとにかく色んなアーティストを引っ張ってくる。マニアックなアイドルに時間を割き、BRAHMANやTHE BONES、横山健、Dragon Ash、UVERworldをテレビに引きずり出す。
LOVE MUSICは今トレンドの音楽を奏でるインディーズバンドをスタジオ演奏させる。
こうしたテレビ側も変わりつつある。ミュージシャンを視聴率のためにタレント化させたHEY!HEY!HEY!やうたばんとは違い、音楽を届ける事を信念にしている。(復活したHEY!HEY!HEY!はそれはそれで新鮮で良かった)
テレビで音楽を届けるのは自由ではない。ワンコーラスだけとか、変な演出が入るとか客がいないとか、タトゥーは隠せとか、歌詞は変えろとか、その制約は様々だ。テレビに出るためにもそれにふさわしい音楽と言葉遣いが必要だし、進行の邪魔にならないように予定調和的な会話に参加しニコニコして大人しく座ってカンペ通りに会話を進める必要がある。それはたしかにつまらないかもしれない。でもだからこそ挑戦しがいがある。そこを無視するのは簡単だ。テレビなんて出なくてもネットがある時代ならいくらでも売れる方法はある。しかしそれよりも、きちんと一人の大人として、社会人としてもらった仕事はこなす。その上でやりたい事を自己表現する。それが私たち21世紀を生きてきた人間のやり方だ。
星野源はタイアップも主題歌もこなす。キャッチーで子供にも好かれ、日本中を席巻した。だけれどその中にマニアックな愛を込める。細野晴臣のエッセンスを入れる。時にはラジオなどの比較的自由なスペースでそれを熱く語る。そしてファンに古くて新しい音楽を紹介する。やりたいことだけをやるアーティストには決してできないことだ。
他の例も出そう。少し前に行われたFIFAワールドカップのNHKのテーマソングに抜擢されたSuchmosが少々炎上した。それはテーマソング「VOLT-AGE」がワールドカップにふさわしくないとするものだ。たしかに楽曲は終始ミディアムテンポで盛り上がりに欠けるものだった。その楽曲の良し悪しは置いといて、気分が高揚しないことが炎上につながった。
■『VOLT-AGE』、サウンド的にこだわった部分は?
クリス:リバプールのアンセム『You’ll Never Walk Alone』の歌詞も、『VOLT-AGE』の中で引用していたりもしていますが、サウンド的にこだわった部分はありますか?
YONCE:NHKが僕らを起用してくれた意味というのは、NHKにとってのチャレンジだと思うので、いわゆる典型的なパターンとか求められている部分も意識しなければならないですけど。俺たちは俺たちの納得の行く形というか、一番ベストでカッコいいと思うものを聴いてもらえたらいいなという一心だったので。
クリス:サッカーだと「オーオー」が入るけど、入らなかったのがよかったのかと。
YONCE:それが悪いとは思いませんけど、こういう嗜みもあるぜというのは提案していきたいなと。
彼らは、自分たちのスタイルを貫いた。よくあるサッカーテーマソングではなく、Suchmosらしさを出した。この判断を私は間違っているとは思わないが、世の中の意見はちょっと違う。
「お前らの自我など知らんわ」(友人談)。
これが世の中の意見と断定して良いものなのかはわからないが、あの炎上はおそらくそれによるものだろう。ちゃんと仕事をこなせ、その中で個性を出せ。ニーズに満たないのに個性を出すな、というのは良くも悪くも日本社会の縮図にも見える。
一方で最近台頭してきているバンドにNulbarichがいる。Suchmosとよく比べられてきたソロプロジェクトなのだが、Nulbarichは対照的にタイアップをこなすことで知名度を上げてきている。SuchmosもCM曲で知名度はあげたが、CMありきで作られた曲ではない。Nulbarichは仕事人だ。万人に好かれそうな曲を徹底している。別にだからと言ってSuchmosを批判するわけではない。あくまでそういう傾向があるという話だ。
自由を再び覆していく10代
われわれの自由とは、今日、自由になるために戦う自由な選択以外のなにものでもない。
とは、サルトルの言葉である。私たちは戦っている。自由を求めて自ら望んでその沼につかっている。何ならやっていいのか、何なら許されないのか。アウトとセーフの境界線をなんとなくシェアしながら、お笑い芸人もミュージシャンもその境界線を手探りする。それは私たち20代から30代がテレビから学んできた。テレビから倫理を学び、モラルを共有してきた。ここまでは許されてこれはアウト。テレビという極めて厳しいモラルやコンプライアンスを潜り抜けた厳正なるコンテンツを享受してきてその価値観を育んできた。
しかし、いま、また少しずつ変わろうとしている。テレビを見るのをやめ、もっと自由でもっとモラルの境界線があいまいなネット世界を基準に価値観を構築する10代が現れている。YoutuberやTwitterが顕著な例だろう。テレビなら明らかにアウトなことも平気でアップロードする。批判はある程度あっても構わない、むしろどれくらいの共感と称賛があるかだけが重んじられる。むしろ昔に戻ったような、ハチャメチャな企画がいくつも存在する。誰かを不用意に傷つけ、悲しませても、喜んでくれる母数が多ければ構わない、というその自由な発想は、20代30代のテレビ世代には理解ができない。通りすがりの変な人をTwitterに無断であげてバカにしてネタ化させることをためらいもなくやってのける世代を私たちはどう受け止めればよいのだろう。ReVision of SenceというバンドがBAYCAMP 2017で女子トイレのうえで演奏を行ったことで批判を浴びた。彼らにとってはむしろ知名度をあげることとなり、しかもおもしろいと笑ってくれる一部のファンがいることで誇らしく思っているのかもしれない。しかし20代のテレビ世代から言わせると、そんな自由はくそくらえなのだ。そんなもの自由でも何でもない。誰かに迷惑をかけ、困らせていることを「自由だから」という免罪符でなんでも片づけようとする姿勢はいただけない。もちろん、若い世代の価値観へのすり合わせは必要だと思っている。なんでもかんでも彼らを非難するつもりなどない。だけれど、明らかに彼ら10代はそのモラルの境界線があいまいになっている。どこがグレーでどこがアウトなのか各々で異なっている。個性も大切だしそれぞれの生まれや環境で全員が同じ価値観で一致させる必要はないと思う。でもどこかで「まあこれはダメだよね」という最低ラインぐらいは全てとはいかなくてもいくつかは共有しておきたい。年代問わず、「人を悲しませたり傷つけることはよくない」というのは同じはずだから。
まとめ
20代30代は、平和的で無欲で安全なところに落ち着こうとする、と言われがちだ。一理あるかもしれない。でもギャンブルをしなくても車を買わなくても女と遊ばなくても楽しみ方を色々見つけられるのが我々なのだ、とするのは少し強引か。ビートたけしの時代もおもしろいし、あれぐらい自由な発想でハチャメチャなこともしてほしいし、テレビの音楽に縛られてつまらない楽曲ばかり作るアーティストが増えてほしいとも思わない。テレビに出なくたって素晴らしいアーティストはたくさんいるし、それを選択することも間違いではない。youtuberもニコニコ動画配信者もツイッターでネタを披露する者も、おおいに自由で柔軟な発想のもと、おもしろいことをどんどん発信してほしい。社会や政治に巻き込まれないで、むしろ新しく社会や価値観を作り上げるくらいの勢いで。ただ、つまらないと言ってしまいがちな人たちに、私たちの楽しみも少しは理解してほしいのだ。私も、だからJPOPが好きだし売れているバンドが好きだ(もちろん価値基準がそれだけと言う意味ではない)。
すぐに下ネタにつなげればそりゃ笑えるだろうし、芸人の宝物を燃やしてしまえば面白いに決まっている。でもあえてそこを避けたい。それよりもっと面白いことを探したい。きっと、そう考える人、多いと思う。