去年の5月以降、全てのイベントに「平成最後の」という枕詞がついてきた。「平成最後の海開き」「平成最後の夏休み」ならまだわかるが、「平成最後のハロウィン」はもはやごった煮感が強くいったいどこの国の話をしているのかわからなくなる。
いよいよ4月に入り、「平成最後の1週間」「平成最後の水曜日」みたいな文言がずらりと並び始める。きっと4月30日はカウントダウンをしてみんな祝うのだろう。ある人はジャンプして「俺令和元年の瞬間地球上にいなかったんだぜ!!!」とはしゃいだりするのだろう。そういう人はきっと新聞の号外もしっかりと鷲掴みしたのだろうし、平成の空気が入った1000円の缶を嬉々として購入しているのだろう。別に好きにしたらいいが、令和に変わる事をどれほどの事と捉えているのか推察するのは難しくない。

もちろん影響がないとは言えない。人間は、あるいは社会は、記号によって左右される。令和に変わっても自然は変わらないし日本人以外は変わらないけど、「令和に変わったんだ」と意識した日本人は自ら勝手にその姿と在り方を変容させていく。変化しろと言われたわけでもないのに、その記号に引っ張られていく。きっと「令和」の空気感はその内勝手に自分たちで成型させていくのだろう。でもメディアはそれを超自然的なものとして扱う。さもそれが外的影響によって変容せざるを得なくなったものだと伝える。自分たちで勝手に進路変更しておきながらずいぶんとひどい物言いだけれど世の中とはそういうものらしい。

音楽もきっとかわるだろう。平成初期に小室哲哉によるビーイングブームが来ると、モー娘。、ジャニーズによるメディアの占拠、ヒップホップブーム、AKBを筆頭とするアイドル戦国時代、さまざまなトレンドが登場した上で総括するなら「音楽の多様化」だったと思う。そしてもう一つが「音楽の手軽化」。MDからCD、ダウンロードからストリーミング。より手軽に時代や距離の制限を超えてあらゆるジャンルの音楽を聴けるようになったおかげで、趣味が細分化した。そしていよいよ自分一人で作曲ができるようにまでなった。高いスタジオ代を払う必要もないし、スタジオミュージシャンを招聘しなくても家でパソコン一台あれば立派な曲を作ることができるようになった。米津玄師だったりとかMomとか、そういう自由さが生まれた。
聴く側や作る側が変われば、語る側も変わった。平成初期の頃は音楽雑誌がそのハンドルを握っていたが、いつのまにかウェブ媒体の記事が重宝されるようになり、今では、ほら、私のように素人が好き勝手に音楽を紹介したり語ったりしている。著名な人であればその辺の音楽雑誌よりはるかに強い影響力さえ持っている人もいる。Youtuberの台頭もその一つかもしれない。語る人間が圧倒的に増えた。それは自明のことだ。

聴く側、作る側、語る側。それぞれが変化してきた。それは平成という言葉によってではなく、テクノロジーによって支えられてきたものだ。しかし令和は、平成ほどのテクノロジーの恩恵に与った変化はあるのだろうか。そこは少し懐疑的な部分でもある。
ひとつテーマを絞ると、音楽は聴くものから体験するものへと変わってきた。98年に初めてFUJIROCKFESTIVALが開催されて以降20年間、日本において音楽フェスは増えに増え続けてきた。「フェス飽和時代」とか言われてしまうまでに成長したフェス産業は佳境を迎えている。ビバラロックを主催している鹿野淳はインタビューでこう答えている。

で、フェス文化自体が今、完全に転換期にあると思うわけ。フェスバブル自体はまだ萎みきってないんですよ。萎み始めてもいないと正直思ってる。でも、萎み始めてもおかしくないし、間違いなく2020年がターニングポイントになるから。
—間違いないですね。
鹿野:2020年以降はいよいよ淘汰の時代がくると思わないでフェスをやってる人間は、よほどの馬鹿だよね。フェス文化自体は死なないけど、必要とされるフェスだけが残る。

令和、というよりは2020年、がターニングポイントとして挙げられているが、やはりフェス全盛の時代はいつか萎む。
フェスが台頭したことで音楽シーンに与えた影響は色々と語られている。例えば2010年代前半に起きた四つ打ちブームはその最たる例だろう。家で音源を楽しむ以上に、どうやって現場に来てもらうか、来てもらったらいかに楽しませるか、その一つの回答が「BPMを速くして躍らせる」だった。その功罪は語らないが、日本でロックバンドがこれほどまでに土着してゆるぎないジャンルになっているのはここがキーだったとも思う。EDMに流れなかったのはなんとも日本らしい。
それよりも気になるのは、現場重視の時代になったことが、いかにエンタメ性を上げるかを競うコンテンツになっていないかということだ。

音源のクオリティを上げることより、来てくれた若い子たちが楽しくて笑顔になれるようなライブを目指すことは当然だし間違っていることは一つもないのだが、最近登場してくるバンドの何割かは面白さ重視が目立つ。歌詞がおもしろい、変な恰好をしている、途中でコントがある、変わった演出や飛び道具がある、など、いかにユニークで笑えるかを肝にしていると、どうにも個人的に居心地が悪い。いちゃいけないなんてことはないが、「若者に人気のバンド!」の触れ込みの中身がそれだった時は少々がっかりする。基本的に音楽で笑いを取るのは難しい。音楽の特性上、間を自在に操ることは至難だからだ。だから正直ドンズべりしているバンドは多々ある。音楽でネタに走ってそしてドンズべりしているとか目も当てられない。それに加えてファンが「でも音楽が実はいいから!」と自ら下げに下げまくったハードルをまたいでみせて誇らしげにしている。やっぱり目も当てられない。

じゃあ令和はどうなんだろう、と想いを馳せてみる。2020年を皮切りにすこしずつ淘汰されていくフェス。でも音源でお金が生まれにくい状況を踏まえると、ライブ自体が衰退するとは思えないし、少なくともアーティスト側はライブで稼ぎを得ようとたくらむに違いない。となるとやはり加速されるエンタメ精神。しかもそのエンタメとは圧倒的なパフォーマンスや熱量ある演出の事ではなく、実際におもしろおかしく笑わせることを指す。
どんな音楽があっても構わないし、自分たちの才能に限界を感じ、純粋に良い音楽を作るだけでは売れないと気づいたときにいち早くユニークでおもしろい試みができることはビジネスにおいても大変重要なアンテナでもある。それは称賛されるべきことだし、勇気ある選択だと思う。なので特定のバンドを非難したりはしないが、結果としてそれがシーンの中心に蔓延ってしまうのはいささか気にくわない。これは個人の感想である。是非ではない。

人それぞれに理想の音楽論があったりする。ロックバンドでなきゃダメな人とか、自作自演のシンガーソングライターじゃないとダメな人とか、色々いる。そのどれもが尊重される意見であり、その人の好みである。「は?ロックじゃなきゃだめとか価値観狭すぎんだろ!!!」と胸ぐら掴んでケンカ売りに行くようなことはしない方がよい。

私にとっての音楽の理想は、別にロックじゃなくてもいい。むしろそれだけだとつまらないと感じる。ヒップホップもアイドルもハウスもEDMもアンビエントもプログレもいっぱいあってそれがうまく混ざり合っててほしい。他人から曲を提供されていても別に問題ないし、口パクでも気にしない。それらは全て「音楽に対して言い訳せず全力で向き合っているなら」がつく。令和はそんな時代であってほしい。「音楽の才能ないけどおもしろいことしたいし~」と歴史をリスペクトするでも音楽の勉強をするでもなくとりあえずメジャーなバンドの音楽の見よう見まねで作ってあとはライブでハチャメチャなことしてファンを稼ぐってのはありだったとしても見たくない。ここで言う見たくないは「見なきゃいいじゃなん」で棄却されるような「見たくない」ではなく、そんなバンドが「若者に人気のアーティスト!」と紹介されシーンの真ん中に立ってしまって無視できない存在になることを指す。



世界を見渡しても、あちこちでいろんなメッセージが込められた歌や人が話題になる。ブラックライヴスマターに見られるような黒人地位向上の流れ。フェスにおいての女性アーティストの割合を多くしようとする動き。昨今のアジアヒップホップブームによるアジアカルチャー見直しの文化。そのどれもがきちんと当事者が表立って表明してきたからようやく顕在化されてきたものばかりだ。ビヨンセにしろケンドリックラマーにしろカニエウエストにしろ、批判覚悟できちんとその立場を示してきた。あえて日本に当てはめるなら、令和の時代はそんな風潮を引っさげて突入してほしいななんて思ったりする。刹那的な「その場が楽しければなんだっていい」「音楽が流れている間は世界平和だ」みたいな平和ボケにも通ずるような楽しみ方ばかりでは日本の文化は先へ進まないのでは。それだって当然大切だけど、そろそろ日本も考えるべきことは考えて表明すべきことは表明しないと。「音楽に政治を持ち込むな」がどれほどの賛成票を投じられているのかは分からないが(ちなみに私は限定的な意味でこの意見に賛成である。詳しくはこちらに書いている)、誰も傷つけないようにした結果誰も救われない社会が来るのは怖い。言いたいことが言えて、それに共鳴する人がいて、興味ない人はべつに首を突っ込まず、でもちゃんと自分の意思は持って。
誰かが搾取されたり奴隷的な待遇を受けたり、差別されたり、ないがしろにされたりしてほしくない。

音楽で社会を変えられることなんて本当に限定的なものだけれど、音楽が好きな人間同士なら大きく変えられることはできると思う。バカやるのも楽しいし絶対無くなってはいけないけれど、それがカウンターカルチャーじゃなくて若者の当たり前になるのはちょっとだけ不安になる。日本でもきちんと言いたいことが表明できるシーンになりますように。「売れないから」とか「商業的に考えて」「スポンサーが」「炎上が」とかそんなちっぽけな事ばかり考えないで、もっと社会的な意義を果たす機会が増えますように。令和は、そんな時代であってほしいな。なんて思うので平成最後のブログを締めようと思う。