流行とは
先日、ネットのまとめサイトでこんなスレを見つけた。
まとめサイトにいちいち憤ったり訂正しようとしたリ正論振りかざそうとしたリするのはあまり意味がないので、そんなことをしようというわけではない。
ただ、これをきっかけに、流行とはなんだろう、と考えるに至ったので少し書く。
このスレの趣旨に合わせて、今回はヒップホップの隆盛について考えてみる。
90年代HIPHOPブーム
90年代に確かにHIPOHOPというものが日本語でも歌われ始め浸透してきたときがあった。詳しいアーティスト名の羅列は控えるが、特にメディア露出が多く今でも多くの機会で流されるのはスチャダラパーであったりライムスターだったりする。
そうやってアンダーなところからどんどん素晴らしい人材が出てきて、そこにかっこいいと思う若者が増えてくる。でも、今まで通りアウトサイダーな人たちしか聞かないジャンルのままだったらヒップホップは流行していないはずだ。
そうじゃなくて、ヒップホップを聴かなさそうな人でさえ手軽聴くことができる状態こそが本当の流行になるんだと思う。
となると必須なのは、その橋渡し役だ。
私が上のスレで違うなと思ったのは、Dragon Ashが最後のラップブームだという所。流行について語るときは、どれだけヒップホップ精神が本物かで測ってはいけないと思う。
むしろその逆で、どれだけヒップホップが”軽薄”に扱われたか、その”軽薄さ”のピークを知る事こそ流行の最盛期を知ることができるのではないだろうか。
00年代の”軽薄”なブーム
語られていないRIP SLYMEなんて00年代中ごろまでは確実にシーンの真ん中にいた。(もちろんRIPSLYMEはまぎれもないヒップホップで、彼らを今否定する人は多分いないだろう)。2007年の「熱帯夜」までは、ヒップホップ、いや音楽に興味ない人たちでさえ聞けばわかるほどに浸透していた。あれはブームの一角を担っていた。
でももっと浅く考えてみる。ケツメイシはよりヒップホップ色を消して、歌モノとして成立させていたし、SEAMOも恋愛ものとして「マタアイマショウ」でヒットした。
HilcrhymeやET-KING、nobodyknows+といった、ヒップホップ精神とはを追及してコアに届けるのではなく、あくまでラップを一つの手段として多くの人にわかりやすく届けることに努める人もでてきた。
一部からは「あんなのヒップホップじゃない」とか「ダサい」とか言われがちなJ-HIPHOPな人たちだけど、かれらのおかげで流行が持続していたのは間違いない。
もっといえば、ヒップホップアーティストじゃなくてもラップを曲間に導入する、ラッパーじゃなくてもラップをサビ前に入れる、のが当たり前になってくる時代があった。
例えば嵐の櫻井がするサクラップ。例えば青山テルマfeat.Souljaの「そばにいるね」。例えばHYの「AM11:00」。
そういった、JPOPに当然のように混ざるラップ、という状態だって立派な流行の一つの過程なのではないか。
つまり、世の中に一つのコンテンツ(音楽)が浸透するまでの流れはこうだ。
- あるジャンルに魅了されるごく少数の人たちが自分なりの解釈で表現を始める
- カッコいいと評判になってどんどんセンスの良い人たちが集まる。
- その中でも突出した人がセールスとセンスの両立を成し遂げる。
- すると他ジャンルの人たちにも聴かれるようになり、よりそのジャンルの使われる幅が広がる。
- テレビなどオーバーな場で披露される。
- 音楽にあまり興味のない人たちも好きになる。
- それが売れる要素の一つになる。
- ジャンルの幅を超えて使われ始める。
- アンダーな人たちからはすごく嫌われるが、ある種軽薄なジャンルの摩耗が始まる。
ここから先は、このジャンルが衰退するか、さらなる天才を創出しよりジャンルへの深い貢献をするかはシーン次第なのだが。
軽薄さを避けない
どちらにせよ、どうしても物事が流行った時は、古参と呼ばれる人たちは眉をひそめるしその時代をひた隠しにしたがるんだけど、そういう瞬間こそ大事だったりする。
もちろんそれで消費されつくして文化が衰退するのは避けなければならないが、無碍にもしたくないなと感じた。
自分はスチャダラパーやTOKYO No.1 SOUL SETが好きなのですが同世代はラップ=フリースタイルってイメージを持ってて、ラップが表舞台に立つことはもうほとんど無いのかなと思ってたのですが、なるほど他ジャンルの曲に組み込まれてるのでまだ廃れたってわけでは無いんですね。良かったです。
コメントありがとうございます。
いまやラップはトレンドみたいなもので、おしゃれな曲にラップが入ってることは多々ありますね。