言葉と音

音楽と政治は切り離せないが、日本の音楽においては政治的な結びつきは極めて弱い。それはアーティスト側のアティチュードの話ではなく、リスナーの音楽に対する受け止め方や摂取の意向が政治的ではない。ただすごく生活的ではある。自分たちの日々の暮らしや組織やムラ社会の中での立場からくる葛藤やジレンマ、悩みなどは如実にその方向性を向いていく。歌詞ばかりが取り沙汰されて、まるで詩の朗読大会にもなりつつあった00年代に比べると、10年代はかなりその傾向が薄れ、音に注目が集まった時代でもあったと思う。それは同時にカラオケ文化の変容も示唆している。

カラオケランキングがいまだに古い曲で占められているのは決して今の曲がみんなに認知されなくなった、いわゆる”みんなのうた”の消失によるものではない。米津玄師の「lemon」でも、あいみょんの「マリーゴールド」でも、歌われるものはみんなに歌われる。ただ、もうカラオケで歌詞に没頭して自分に重ねて涙したりする人が圧倒的に減っただけだ。カラオケは単なるコミュニケーションツールにすぎず、時には世代間の断絶に耐える拷問器具にすらなりうる。音楽をいかに歌いやすくするかなどは00年代的発想で、今はどれだけ回数を聞いてもらうか、あるいはファンになってもらうかだ。広く浅くより狭く深くの方がビジネスプランとして理にかなっているのだ(もちろん歌いやすさや口ずさみやすさがバズへの取っ掛かりになっているのは事実だが)。


フェスノリにさよならを告げる2020年代

2010年代初頭にブレイクしたSEKAI NO OWARIや2016年ごろから台頭してきたsuchmosなど、自分たちのスタイルをさらに先鋭化させていくバンドは後を経たない。売れたらむしろファンを選別していくような姿勢は、10年代後半のKing gnuなどにも通ずるものがある。特に上記の2組は、去年それぞれオリジナルアルバムをリリースしており、そのどちらもが明らかに代表曲とされるものからは遥かに遠く離れたものを中心に組み立てられている。10年代のある種軽薄な四つ打ち・グッドミュージックからは”もうgood night”を告げるような作品だった。

もうそこには何もないよ、まだそんなことでパイを奪い合ってるの、と言わんばかりに実力のある売れっ子たちがフェス的な文化からドロップアウトし始め、そこについていけないものはどんどん休止に追い込まれていく。まだサイクルの遅い日本だからこそ持ち堪えているものも多数あるが、いずれそれらは底を尽きてくたびれてしまうだろう。

大手レーベルに頼らずとも自分たちである程度までブランディングして、むしろ”契約させてやる”形でデビューできたアーティストは比較的自由な活動ができる。そしてそれがなによりファンの満足度を上げていく。ヨルシカにしろ須田影凪にしろずっと真夜中でいいのに。にしろ、それがスタンダードになっている時代で旧態依然な活動を続けるアーティストはかなりしんどい状況ではある。


タイムラグが減ってきた

もう少し具体的な音の話をすると、海外とのタイムラグがかなり狭まってきた。それは先に言った、アーティストとリスナーの間に余計な業界人の意見が挟まれなくなってきたことも起因しているが、一番大きな要因はApple Musicやspotifyといった定額配信サービスによるリリースのサイクルの高速化が挙げられるだろう。思い立ったらとりあえずリリースすることができるようになったおかげで、わざわざアイデアを眠らせる必要もない。ジャンルこそ文化圏の違いでなかなかそう簡単に真似ることはできなくても、Billie Eilishの「Bad Guy」やRex Orange Countyの「Television / So Far So Good」のような後半でガラッと印象を変えてまるで二曲目へ移行したかのような展開を見せるサウンドを、2020年頭に三浦大知は「Nothing is All」で披露してみたり、Friday Night Plansは「HONDA」で素早くアウトプットしてみたりする事はできる。

また去年リリースしたFive New Oldのアルバムは明らかにThe 1975を意識した作風で、それも2018年末にリリースしたアルバム「A Brief Inquiry into Online Relationships」からのモチーフも多く、バンドでもそこまでのスピーディーさがあるとさすがに驚く。今絶頂期を迎えているOfficial髭男dismもDonnie Trumpet & The Social ExperimentのChance The Rapperがフィーチャリングしている「Sunday Canday」の影響を口にしているのは周知の事実である。

もう一つ特異な点を挙げるとするなら、管楽器の使い方の変化があると個人的には思っている。Official髭男dismの「宿命」や「I LOVE…」のブラス隊、King gnuの大胆なホーンの導入は、音楽性を色鮮やかに反映した布陣と言える。それはThe 1975やHaimが示すような”ロック”と”管楽器”の耽美な融合にもみられるし、昨今のヒップホップとゴスペルの邂逅も大きな分岐点であると言える。Chance The Rapperが大きなトレンドの一つだったのが2016年から2018年にかけてだが、そこから次いで2019年はKANYE WESTがもはやゴスペルを超えた賛美歌にまで到達している事実を鑑みるに、やはり高音域をコーラスワークや管楽器に頼ることは音楽の常識になりつつある。

今まで日本には小林武史や小室哲哉に代表されるようなシンセとピアノのアンサンブルしかなかった国に、管楽器というトレンドが侵食しつつある状況は感じる。そう思うと2020年にリリースしたTame Impalaのロックアンセム的なアルバムは今のタームに相応しい煌びやかさをまとっている。


世の中を見通すときの”その年の一曲”

いまだ大きなヒット曲がない2020年の日本だが、必然的にオリンピックイヤーという事もあって、そこに一枚噛むことのできるアーティストの時代になるのは間違いない。それは嵐でもゆずでもmiwaでもありえる話だが、果たしてそれだけが全ての潮流を表すものと言えるだろうか。メディアの後日談は得てして恣意的だ。ゆずが「栄光の架け橋」を歌い上げていた頃なんてただの一曲ですらなかったが、いつの間にかあの年に流れた音楽はいつもきまってアレだと決めつけられている。そこに政治も環境も経済も関与しない、ただひたすらに独立的事象であるオリンピックをトピックとして成立した架空の日本人の熱狂があそこにある。

ヒット曲は大事であるが、ヒット曲をどうみるかはもっと大事だ。メディアの切り貼りするランキングに一喜一憂していては音楽の中身は見えてこない。今年はすでにGEZANが2020年に出すべきアルバムをリリースして、小袋成彬が去年末に日本のR&Bを更新する一作を提示している中で、のうのうとギターロックアンセムで国家高揚を政府におだてられやっている場合ではない。それぞれがきちんと意思表明することの重要性は、この未曾有のウイルスによるライブイベントの中止を見ても明らかだ。どこまで世間の写し鑑になれるか、そこは一つの試金石になるだろう。


メディアと音楽の整合性のなさ

もっとポップな話になると、個人での活動やインターネットからの登場はもはや正規ルートになりつつある。テレビの紹介なんて当てにならず、いつだってすぐにSNSでバズるのが正攻法。それを真っ向から証明してみせたNovelbrightや、藤井風といった新人がぐいぐいと推されていく。もちろん売り時を今か今かと待ち構えてようやく気を熟したChelmicoやiriといった実力派が大型メディアへの露出を増やしていくことも見逃せない。サウンド自体も決して日本人の心に寄り添うような甘ったるさはなく、きっちりと自分たちの境界線を守っている。2010年代にはサブスクやフェス、SNSといった土壌が今ほど揃っておらずどうしても足並みをそろえがちで突飛なことができなかったサカナクションの苦悩をひょいと飛び越えていくような軽快さは、お笑い第七世代のEXITや宮下草薙を彷彿とさせる。

まとめ

とくにコンセプトもなくなんとなく書き進めてきたらここまで思いついた。ずいぶん読みづらい文章になり、しかも一本筋が通ったものにすらならなかった。見通しと言っても、ここまで刻一刻と状況が変わるなんて思っていなかった。あらゆる来日公演がキャンセルとなり、ここ10年で最低の来日数/ラインナップになるのは確実で、文化の衰退を危惧する人は少なくない。こういうふさぎ込みがちな事件が起きると、下半期はその反動が必ず起きる。そして否が応でも「それでも音楽が支えてくれた」みたいな構文と共に私たちの思い出を書き換えていくのはメディアの常とう手段だ。そこに心奪われてはいけない。しっかりと前だけを見据えて、じっくりとその先を眺めるのだ。そして見えてくる音楽の未来に少しだけ手をかける。そっと覗き見る。正しいかどうかは二の次だが、決して結論ありきの音楽に流されないように、今年も音楽を聴き続ける。それが真摯な姿勢というものだ。