沁みない島谷

千鳥の鬼レンチャン(フジテレビ)という番組は、様々な歌手やタレントがカラオケで音程を外すことなく10曲歌い上げることを目指す番組で、その内容もさることながら、それを見守る千鳥とかまいたちのヤジも魅力の一つの番組である。

その中で、島谷ひとみがチャレンジする回があった。抜群の歌唱力で次々にクリアしていく島谷だが、千鳥のノブはそれを「沁みんなぁ」と揶揄した。「沁みない」とは心に染みない歌声だということであり、島谷への辛辣な批判である。当然、そのO.A.後、島谷ファンから大きなバックラッシュを浴びる。後日ノブはそのファンの反応をまとめたVTRを見ても臆することなく、なお「沁みん」「沁みんるかぁ?これ」と笑いながら揶揄した。

普段からこの番組を見ているわけではないので、ことの経緯は番組内の振り返りVTRでしか確認できていないが、おおよそこんな感じだった。果たして「沁みる」とはどういう状態なのだろう。

沁みる/沁みない

大前提として、「沁みる」か「沁みない」かは聴いた人間の主観であり、別にどちらも個人の感想にすぎない。なので「沁みる」人には「沁みた」のも揺るぎないその人にとっての事実で、「沁みなかった」ノブにとってもまた事実である。したがって、「沁みた」人が「沁みなかった」人に対して(あるいは逆もしかり)批判したり否定したりすることにほとんど意味はない。そして同時に、特に「沁みた」人たちに向かって「こんなのは沁みない」とわざわざ気分を害することを言う必要性などない。

と、真面目なことを語っておいて本題に入る。ここで改めて重要なのは、千鳥の二人のワードセンスと笑いの機微に対する感度の高さだろう。ノブも大吾も、決して的外れなことを言わない。みんなが共感できないことは面白くないからだ。思ってもなかったけれど言われるとなんか笑ってしまう、そんな絶妙なラインをつく。島谷ひとみに対して「沁みない」といっても、おそらく宇多田ヒカルに「沁みない」とは言わないそのわきまえがある。このボーダーは言語化されないし、センシティブなので語りづらい。しかしここを避けてはこの話は進まない。

島谷ひとみに「沁みない」と言っても笑いとして成立すると判断する根拠には、まずこの番組の性質にも関わる。この番組はあくまでカラオケで、まれに持ち歌を歌うこともあるが(事実島谷は持ち歌の「亜麻色の髪の乙女」を歌唱した)、基本的には他人の曲を歌う。そしてクリアの判断は”音を一音も外さないこと”というスキルのみを根拠にしている。いわゆるカラオケの要素が濃く、歌手特有の表現力やパーソナリティなどは排除されている点が、そもそも「沁み」にくい仕組みになっている。ただし、ノブは例えばNOKKOの「人魚」という曲を「これは沁みる曲」と評価していたわけで、楽曲自体が沁みないとは思っていない(という流れである。本心かどうかは問題ではない。お笑いなので)。ただ、そんな沁みる名曲を島谷が歌うことで沁みなくなる。それは決して番組のシステムだけの問題でもなさそうだ。

May.Jへの批判

同じカラオケ番組として、歌うま女王選手権という番組があった。そこでMay.Jは大きく存在感を残し、絶対王者として君臨していた。それは彼女の圧倒的な歌唱力で他をなぎ倒してきたからだ。ただ、彼女もまた、カラオケ歌手として揶揄され続けてきた。May.Jはなぜ、当時あそこまで言われ続けたのか。当時のTwitterやネットの書き込みを私が観測した限りだが、アナと雪の女王が流行った時、主題歌バージョンを歌うMay.Jは心に響かないと言われ、劇中歌バージョンを歌う松たか子は称賛されていた。May.Jの方が単純な歌唱力も表現力も高いと思われるはずなのに、彼女はひたすらにこき下ろされていた。

とくにMay.Jはカバー曲としての「レット・イット・ゴー~ありのままで~」があまりに認知されたため、”他人の曲でふんどしをとる歌手”というネガティブなイメージが誹謗中傷に拍車をかけてしまった。お笑い芸人のたむらけんじはかつてある番組内で「オリジナル曲はどれやねん」と言ってMay.J自身がそれに反応するなど騒動にまで発展するなど、とくにバックラッシュの大きかった歌手だと記憶している。

近年はYoutubeで自然体な姿を出しながら、歌手活動も積極的に行っており、特に去年リリースされたアルバム「Silver Lining」はYahyelの篠田ミルがプロデュースしており、オルタナティブで非常に洗練されたハイクオリティでかつての「カラオケ女王」の面影はこのアルバムでは一切感じられなかった。

おそらくこの「Silver Lining」を聴いて、カラオケ女王だとか、「沁みない」という言葉を用いて批判する人は少ないはずだ。つまり、「沁みる」というのは本質的な部分ではなく、明らかに”ガワ”の部分だけを切り取った評価にすぎないということだ。抑えたトーンでサビもわかりづらい”とっつきにくい”作品は「本物」だと感じ、他人の曲を歌うと「薄っぺらく」感じる。そして、島谷ひとみをみたときに、他人の曲を歌う以外にノブには見えていないのだ。彼女がリリースした過去の作品やオリジナル楽曲は(残念ながら)ノブには届いておらず、タレントの側面が強くこういったバラエティ要素の強い番組には出演してしっかりとカラオケしてくれる様は「沁みない」といっても差し支えない程度だと見積もっている。

お笑いと世間の感覚

特に結論として誰が沁みるのか沁みないのかを争点にしたいわけではない。ただ、ノブの「沁みん」をひどい言葉だと片付けるのもいささかもったいない気がする(ファンの方々には大変申し訳ないが)。なによりまず彼女の気さくな性格と、良い意味で飾らないファッションスタイルとステージングはより高尚なアーティストから降りて身近な存在として機能する分、逆手に取った笑いにもどうしても接続されてしまうことがある。そしてなにより千鳥という今若者から絶大なる信頼をおかれ、そしてだれよりも素人や笑いのプロでないタレントの機微を見つけてはそれを指摘し笑いに変える「相席食堂」に代表されるような隻眼と圧倒的な笑いのロジックを持つ彼らがその微妙な使い分けを行うさまは、見ていて非常に参考になる部分が大きいと思うのだ。彼らは私たちが全く納得できない悪口は言わない。鬼レンチャンに出演している人たちを見ても、それを快く受け入れてくれるであろう人たちが名を連ねていることからも、その微妙な塩梅というものがYoutuberにはなく、テレビ番組に存在するノウハウと呼ぶべきものだと思っている。