SHISHAMOが突如活動終了を表明した。その理由は本人たちの口から語られるかもしれないし、これ以上は語られないかもしれない。もちろんファンにとってはその理由を知りたい気持ちはやまやまだろうが、別に理由を説明しようがしまいが彼女たちの自由であり、それを強制させることはできない。

かつて私は当ブログでも彼女たちのことを何度か取り上げてきた。

名字で呼び捨てするSHISHAMOだから | ノベルにはアイデンティティしかない

正直、SHISHAMOというバンドが登場した時はあまり気にもしていなかったし、むしろ今思えば軽視していたようにも思う。

ただ、年々キャリアを重ね、彼女たち自身もグレードアップしたし、私の捉え方も変わってきた。

とくに2020年にリリースした「明日はない」での、意思表明はあまりに力強く、フェミニズムの文脈を皮脂と感じることができた。

SHISHAMOにフェミニズムについて問うて、どれだけ意識したかを聞き出したとしてそれが明確にあるとは限らないし、本人たちはそんなつもりで歌ったわけでもないかもしれない。ただ、だったらなおのこと、生活から、人生から、フェミニズムの視点からではなく十分「女性」としての性に対する強い生き様を感じられる。

以前ドラムの吉川がパートナーシップ宣誓をおこなったときに書いた記事で、こんな風に述べたことがある。

自分を愛する、というテーマはありふれているし決して今に始まった問題でもない。ただ今この時代で問題視されているのは、それが社会の仕組みとして組み込まれていて逃げられないジレンマにある状況だ。女性は受け身、女性は誰かのために生きる、という前提が男性から提示されるとそういうものだと受け入れる女性がいる。それがその人の幸せなら無理にひきはがすこともはばかられはするが、そもそもの選択肢として自分のために自分を生きることを奪われているのなら問題は別だ。だからこそ気づきのためにSHISHAMOは歌う。もっと根源的な部分から、はじめの一歩ではなく、ゼロの段階から疑ってみる。その恋愛観から脱出してみる。そこから見える景色は男女平等のようで実は勾配のある坂道だったことに気づく。

SHISHAMO吉川のパートナーシップ宣誓とフェミニズム的な文脈について | ノベルにはアイデンティティしかない

そこから彼女たちへの私の見方も変わった。正直、もっと男性依存の強いバンドかと思っていた。それはそれで悪くないが、自分の性には合わないと思っていた。でももっと力強くて、もっと自律的で、もっとロックだった。それがなにより支持できるところだった。

私はここ数年はもう「ガールズバンド」という表現は控えるようにしている。それは適切な表現だと思えないからだ。そのカテゴライズが必要には思えないからだ。でも、「ガールズバンド」というカテゴライズは必要なくても、その「ガールズバンド」が存在することにはとても意義がある。

彼女たちが散々言われてきた”ポスト・チャットモンチー”という言葉(言われてたよね…?)。それは絶対的に「ガールズバンド」の系譜にあたるからで(それ以外にも3ピースという共通点があるかもしれない)、その身勝手な重責を背負わされていたんじゃないかとも邪推してしまうほどだ。結果、紅白歌合戦にも出たし、音楽フェスではトリを務めるほどのビッグアーティストに成長した。

「ガールズバンド」という枠組みが不必要だというくせに、なぜSHISHAMOという”女性だけ”のバンドが飛躍することに過剰に意味を見出すのか。それはある意味で特別視しているわけで、「ガールズバンド」という枠組みで見ていることと変わりないのではないか、と思うかもしれない。

しかし、枠組みの問題ではなく、実際問題として音楽業界、というか”ロックバンド”というジャンルにおいては相当数が男性で占められている。そしてフェスやライブハウスやメディアなども以前よりはずっとましなのだろうが、依然として多くが男性で占められている。アーティスト主催のフェスも、思い返せばほとんどが男性が主催している。男性が男性を呼び、その男性が気に入った女性を使う。そこに女性の主体性は介入しづらい。はたから見て、そんな風に思う。これは私の偏見も混じっているので特定のフェスを断定することはできないが、あるフェスでは男性アーティストが主催し、20組以上出演する中で女性が中心となったバンドは1組だけだった。

女性だってバンドを組んで、フェスに出られる。女性だってフェスのトリを務められる、というロールモデルは後進のバンドに大きな指針となるはずだ。まずはそれが必要になる。そんなこと、可能なんだ、と思わせることの重要性がある。

話は少し変わるが、アメリカのメジャーリーグで、初めて女性審判が採用されたというニュースを見た。

ジェン・パウォルさんがMLB史上初の女性審判に

このニュースに対し、多くの男性がこんなコメントを残していた。

「別に審判に男性とか女性とか求めてないし。大切なのは正確なジャッジをする事だから」

これはごもっともである。間違いなく、審判に性別は全く問題ではない。ただ、そのスポーツにおいて正しいとされる判断をしていけばいいのだ。

ただこれを、いまだに女性が一人もいない世界で、初めて誕生した女性審判に対し男性が言うことが、どれほどグロテスクさがあるかを理解していない。

ならばなぜ今まで誰も女性がいなかったのか。それは単純に女性がやりたがらなかったから、とすませていいのだろうか。もしかしたら審判に憧れた女性はいたかもしれない。というかいたに違いない。いない合理的な理由がないからだ。もしいなかったとしたら、それは別の問題として、男性が女性に対し圧力をかけ、男のエリアを汚すなと追い払い続けてきたからだ。

ただ、いたはずの女性の審判希望者が今まで採用されなかったのh、才能の問題だけだろうか。「女性にはどうせ務まらない」というステレオタイプな偏見もあっただろう。そもそも目指す数が少なく、十分な競争が生まれてこなかったという可能性もあるかもしれない。

いずれにせよ、「求めるのは正確性だ」と特権的な位置にいる男性が上から目線で物申すことの圧力には自覚的でいた方がいい。そして、これが先ほどのフェスでの女性がトリを務めることと同様に、女性でもできるんだとロールモデルになるためには積極的に採用すべきなのだ。それを拒んできたのはまぎれもなく男性である。自分がトリになりたいから、女性に枠をとられるのがいやだから、フェアなふりをして蹴落とそうとする。必ず彼らは否定するだろうが、構造は全くもってそうなっている。

かつてフェスの出演者を男性と女性で半々にしようといった動きがあった時に、実力でフェスは選ぶべきだ、という人が多くいた。実際いままで実力順で選ばれていなかったにもかかわらず(実力順で選ばれているならもっととっくに女性の出演者は増えていたはず)、そうやって平等主義だとうそぶく人たちがいた。政治の女性進出の話になると、才能のあるひとが政治家になるべきだといった。どうみても才能のある男性ばかりが政治家になっているとは到底思えない。本当にろくでもないクズみたいな政治家がゴロゴロいた。あれよりも女性が劣っていると本気で思っているのなら、その人は女性のいない社会で男性同士でのうのうと暮らせばいいと思う。

SHISHAMOはその点、ロールモデルとして機能した。恋の歌は歌っても、それは決して男性に依存した女性像ではなく、毅然とした態度で、自分の意思を尊重した恋の歌を歌った。そのうえで甘えてみたり恨んでみたり、かわいくなろうよとと訴えてみたりする。それはとても美しい形なのではないかと思う。

SHISHAMOはあと少しで活動を終了させるが、その振る舞いは最後まで見届けるべきだと感じている。