去年、DAOKOと共に「打上花火」で大ブレイクを果たした米津玄師はいよいよ手が付けられないほどにまでなってきた。CD不況と騒がれ、ヒットの崩壊と名付けられたこの時代のニューヒーローとして、救世主となるべくその一手を引き受けている。過剰な期待だとは思うが、米津自身は飄々としているから大したもんだと唸る。

ボカロ出身という21世紀型の出自も彼に重くのしかかる。「ボカロなんて」「レベルが低いから嫌い」と相次ぐ罵倒を黙らせるべく、立ち上がったのが米津だった。まあその努力虚しく昨年テレビでヒカキンとセイキンが素っ頓狂な歌を披露したため、再び世間を「やっぱりネットから来た奴は大したことない」という評価に逆戻りしたが。

ちなみにセイキンは水分を何らかの理由で失ったのだろうか。なんであんなにカサカサなのか、ちょっと興味深い。あと、セイキンをかっこいいという女の子がいて、「あ、俺にもチャンスあるな」って希望を見出したんで感謝してます。

ところで。”目は口程に物を言う”というが、口をふさげば寡黙でミステリアスな雰囲気になるように、”口ほどの目”も隠せばミステリアスになるのは数々のアーティストたちによって証明されてきた。BUMP OF CHICKENの藤原基央やFlumpoolの尼川元気だって次元大介だってブラックジャックさえもそのミステリアス性は前髪によって担保されてきた。素性の知れない独特なキャラクターは皆一様にして前髪で目を覆っている。かくいう私も中学生の頃は必死に髪を伸ばしクールキャラを気取っていたこともある。そういう日に限ってお弁当をひっくり返したり鉄棒から落ちたりともろくも作戦は失敗するのだが、その辺が才能の有無を物語っている。
目が隠れていることがミステリアスへの一歩となり、「才能ありそう」への二歩目を踏み出させてくれる。決して藤原基央や米津玄師を才能のない見掛け倒しだと言いたいわけではない。なぜなら私は藤原信者だし、米津の才能にも惚れ惚れしているからだ。ただ、じゃあ私たちは本当に彼らの才能を感じ取れているのだろうか。髪の毛で目が見えないせいでの「ミステリアス=才能あり」の方程式に任せっきりでそこの議論をキッチリとしたことがない。
例えばカリスマの半分が目が隠れる前髪にあったとして、じゃあ残り半分はなんなのだろうと探ろうとしても、前髪がちらちらと邪魔でよく見ることができない。「Loser」の時のようなミステリアスさを維持したままテレビ出演を拒むことでイメージばかりが膨らむ。人は一度会ってから長い間再び向き合うことが無ければ、その最初のイメージを持続させ肥大化させデフォルメする。世間は米津玄師の目が見えないイメージを肥大化させいつのまにか美化させていった。なので「Lemon」でようやく目が合ったとき、「あれ、こんな印象だったっけ」という不意打ちを食らい、確認作業から始めなければいけなくなる。

あるひとつのインタビューに、ミステリアスさ通り越してちょっと怖くなる解釈を述べている物があったので紹介する。

米津玄師:子どものころ「絵を描くのが上手いね」って言われて嬉しかった記憶が残ってるんですよね。人に認めてもらうってことだと思うんですけど。承認欲求っていうんですかね。それって一つのコミュニケーションじゃないですか。コミュニケーションの方法として、絵を描いて、音楽を作って、ダンスもやって。なんでそこに執着してるのかって言われたら、それは自分が歪な人間だったからだと思いますね。もっと簡単に人と繋がれる人間だったら、そういうことはしていなかっただろうなと思うし。まあ、どっか怪我の功名みたいなところがあるのかな。
--その歪さみたいなものは、早い時点から自覚していたんでしょうか?
米津玄師:20歳を超えてから知ったんですけど、自分は生まれた瞬間から4,500gくらいあって、結構でかくて、ちょっと歪な形をしていたらしいんですよ。だから自分の中で、生まれる瞬間からそうだったんだなって合点がいった。生まれた瞬間からそういう自覚があったのかもなって。そういう人間だからこそ肥大していく自意識もあったりして。

合点いかない、普通なら。まさしく肥大した自意識だ。でも自意識くらい平気で肥大化してそれを消化しきってこちらにほれと投げかけてくるぐらいじゃないとミステリアスなアーティスト性は生まれないのかもしれない。ネットで検索できるあらゆるインタビューを読んでみたが、私とほぼ同年代の米津はやはり「若者」を代表するべくしてなっていることがわかる。彼自身が「若者」の権化だから。

ちなみに、もし米津が野心に溢れ、ゴールを明確化できるような青年だったらきっとミステリアスさは薄れるだろう。武道館に行きたい!!とか大金持ちになって海外でパリピしたい!なんて言っていたらきっと前髪はほとんどないはずだ。

――オリコン1位を獲るというのは1つの節目のように思えますが、今後の目標はありますか?例えば武道館でライブをするとか。

米津:武道館でやりたいとか、そういうのはあまり無いですね。武道館より横浜アリーナのほうが大きいわけですから。それにも関わらず武道館の方がバリューとしてはあるという、それが全然わからなくて。なぜみんなやりたがるんだろうと今でも思っています。

だからこそ危惧するところがある。いつか彼は前髪を切る。切らなければならない、とは言わないが、切らないでずっとミステリアスなまま若者の代表でいることはとても大変だ。いつか自分より他者を承認して育て上げたいという気持ちも湧き上がるときが来るだろう。そんな時米津は何の苦労もなく若者から大人に変化するかもしれない。前髪で隠れていたミステリアスさは他者を受け入れるために開示され伝承しようと試みるかもしれない。でもそこでファンや私たちは妨害してはならない。「昔はこんなんじゃなかった」「変わってしまった」と常に若者の代弁者であれと足を引っ張り続けるのは客観的にみてむごい光景だ。そうだよね、30超えたもんね、そこのステージに移行したならそこからの景色をまた教えてよ、くらいの器量をもって米津の断髪式に挑みたいものだ。

そうだった。かつて「僕の事なんか一つも知らないくせに、僕の事なんか明日は忘れるくせに」と歌っていた藤原基央も、「君の昨日と君の明日をとても眩しく思う」なんて歌いだしたりしたじゃないか。

大人になるって悪くないんだなって最近感じ始めてる。感覚が鈍ってきて、しょうがないとか言い出して、全部が全部受け止められなくなって、でもそれでいてクールでちゃんと処理出来て。20代後半になってきてわかってきた掴み所のない感覚。10代の人はまだわからないかも。30代の人は深く頷いてるかも。大人になるって悪くない。
あれ、急に自分語りが。。。

髪切ろう。