アジアン隅田が芸能界復帰を果たした。かつてブスと呼ばれることに強い抵抗感を覚えた彼女はテレビ出演を控え、表舞台から姿を消した。その時の世間の反応はずいぶん冷たかった。「お笑い芸人のくせにプライドが高い」「事実なんだから受け入れろ」「笑ってもらえてるだけマシ」「芸人やめればいい」と散々だった。身内からも批判は多く、ブスなんだから諦めろとかやりづらいとか。とにかく彼女は自分がブスと言われたくないと主張しただけで袋叩きにあった。

我々は仕事を選ぶことができる。どんな職に就くこともできる。そしてどんな環境で働くかも選ぶことができる。嫌な上司のもとで働きたくなければ人事に訴えて異動させてもらうこともできるし、やめることもできる。隅田にももちろんその選択肢は存在する。ブスといじられたくなければ芸人をやめることもできる。それが最も簡単にその地獄から抜け出す方法だろう。だから多くの芸人仲間も世間も「嫌ならやめろ」という論理がまかり通った。しかしそうだろうか。隅田は「ブスと言われないで芸人を続ける」という選択肢も存在するはずだ。だってお笑いとは”必ず人の身体的な特徴で笑わせなければならない”ものではないからだ。現に噺家は自分や他人の顔や体型で笑わすことはしない。人の悪口を言って笑わせるタイプでないお笑い芸人もたくさん存在する。彼女はただ面白いことを言って笑わせたいだけなのだ。いじられて笑われたいわけじゃない。隅田自身にその実力があるとかないとかは今は問題ではない。そうなると需要がないからテレビに出られないという指摘ももっともである。たとえ彼女に実力がなくても、それで仕事が減っても、彼女はそれを受け入れていただろう。それで「テレビに出られない!仕事がない!」と文句を垂れたその時は満を持して「うるせえ文句言うな自業自得だろう」と私は言うだろう。彼女はワークスタイルを選んだ。仕事を自分から選んだ。選べば当然仕事は減る。でもそれで彼女が受け入れているのなら我々が文句を言う資格は何もない。むしろその状態でなお「ブスのくせに」と追い打ちをすれば、セクハラやパワハラ、はてには侮辱罪にすらなりうる差別的な問題にかかわってくる。

お笑い芸人は笑われる要素も多い分、世間から見下されることも少なくない。”熱い””痛い””辛い””寒い”の仕打ちを受ける彼らはまるで見世物小屋のピエロのようである。でも私たちがその罪悪感を打ち消して安心して笑うことができるのは、それが合意のもとであり、彼らが望んでやっていることだからだ。もし出川が実は奴隷家系で、人身売買されてあのようなことを嫌々させられているとしたら、きっと胸が痛くて笑えないだろう。
だから私も心置きなく笑うために隅田には納得してお笑いを続けてほしい。「我慢しろ」「ブスだから諦めろ」ともはやパワハラ寸前の暴力的な論理では私は笑えない。彼女がブスだといわれて納得して「なんでやねん」と言えるのなら私は大いに笑うだろう。

と前置きが長くなったが、彼女に限らずいまだに仕事は選べないことが多い。法律で守られても建前や環境が許さない。こと音楽においてはまだそれはマシなのかもしれない。一度ついたイメージから脱却しようと試行錯誤するとたいてい叩かれるし古いファンは離れていく。売れたいなら同じ音楽を作り続けろとレーベルから圧力がかかる。でもミュージシャンはどうやら天邪鬼が多く意固地になる人が多いのか、それを振り切って迷走することもしばしば。
ふとフレデリックを思い出す。かつて「オドループ」で一世風靡し流行の四つ打ちに乗っかってシーンの最前線へと躍り出た。その後は、MVもそうだが、その「オドループ」の二匹目のどじょうを掬いに行った。同じようなリフにおなじようなサビと映像。すこし音楽が好きな人なら彼らのがんじがらめにすぐ気付いたろう。しかし若い子たちはこぞって彼らを絶賛した。どうしてもライトなファンは音楽に対して新しい発見ではなく自分の期待する音楽を鳴らしてくれるかだけを判断基準に指定しまう。それを大人たちは知っているから彼らに対して同じような曲を作れと指示する。あまりにむなしい“ループ”である。

しかし去年、ある曲を彼らは投下した。まるでBPMは落ちていてゆったりとしてグルーヴのきいたベースラインで下半身から躍らせるような曲。踊るのコンセプトとキャッチーなフレーズ回しは変わらないが、かれらにとってただの四つ打ちには収まらない新しい世界に踏み込んだ楽曲だった。これを聞いたときに、彼らのやりたいもっと先のことが見えた気がしてとてもうれしかった。ああ、こういうことがしたかったんだね、と。

しかしこの曲に対する反応はあまり喜ばしいものではなかった。この曲を1.5倍速にするとめちゃいい曲になるというコメントに対し多くの好意的ないいねが寄せられていたのだ。この期に及んでまだBPMをあげてしまうのか。彼らの意図はまったくもって踏みにじられ「もっと速くしろよ、お前らにそんなの期待してねえんだよ。いやなら出さなくていいよ」と曲解しているかもしれないが、端的に言えばこういう風潮が流れているような気がしたのだ。

隅田は休むことを選んだ。フレデリックはどうするのか。このままライトなファンを手放してセールスに苦しむのか、諦めるのか。またはファンを教育するという手もある。いずれにせよ彼らの人生であり彼らの選択である。外野がその選択の幅を抹殺することはできないのだ。

「嫌ならやめろ」と言い放たれてこちらの裁量に振り回される時代じゃない。自分たちの未来は自分たちで掴み手放すものだ。